『古事記』は天皇家の「家記」

真福寺本「古事記」序の部分 (宝生院蔵 国宝)

『 先代旧事本紀』『古事記』『日本書紀』の三書は、室町時代頃までは「三部本書」と呼ばれ、共に日本の古代史を記録した史書として大切に伝えられてきた。

この三書は、記載事項に有無があったり、書式や文字づかいの異なる場合があったりするものの、歴史としての記述内容は、全く同一の歴史を著述した史書と認められるものである。従って、同一の歴史を記録した史書がなぜ三書も存在するのか、と云う疑問は従来からも提起されてきた問題であった。しかしこの疑問は、三書の成立事情や成立過程が明らかになれば解明は可能であろう。

『先代旧事本紀』の成立については、その序文に「(それ)、先代旧事本紀は聖徳太子の(かつ)(えら)びたまふ(ところ)なり。時に小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)即位二十八年。」と撰録開始の勅の年を記録する。一方『日本書紀』推古天皇二十八年条には「()(とし)、皇太子(聖徳太子)・嶋大臣(とも)(はか)りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部(あは)せて公民等の本記(もとつふみ)(しる)す。」と載せる。この記述と『先代旧事本紀』との関係を疑問視する説があったが、『先代旧事本紀』偽書説が崩壊した今は、『先代旧事本紀』に関する記述としか考えようがない。要するに『日本書紀』と云う勅撰の歴史書に記載されるから、『先代旧事本紀』も勅撰の歷史書として認識されていたのである。

『日本書紀』は序文を欠くため、その成立過程は推測に頼る他はない。『日本書紀』や『続日本紀』には国史編纂に関する記述が数か所存在するが、そこには書名が記載されていないため『日本書紀』の編纂に係わるものかどうかの議論が続いてきた。

しかし、『日本書紀』天武天皇十年三月条に「天皇御宇大極殿。()テ川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首ニ(みことのり)シテ、帝紀及上古諸事ヲ(しる)(さだ)(せし)ム。大嶋・子首、(みず)ラ筆ヲ(とり)テ、()(しる)ス焉」。とあるのを『日本書紀』撰定の発端として良いであろう。

それは『先代旧事本紀』撰上から六十年を経過した天武天皇朝に至り、宿願の律令制度推進のため、氏族制度色の濃い『先代旧事本紀』の改定を目論んだものではなかったか。

いずれにしても、『続日本紀』養老四年五月条には「一品舎人親王、(みことのり)(たてまつり)て日本紀を修す。」とあるから、『日本書紀』も勅撰の歴史書なのである。

 『古事記』の成立事情はその序文により知られる。そこでは、『日本書紀』と同様に、天武天皇の詔を編纂の発端としている。しかし、『日本書紀』が後には勅撰国史として、「六国史」の劈頭に置かれる存在なのに対して、『古事記』編纂に関する情報は、勅撰国史『日本書紀』『続日本紀』にまったく見えない。この事実こそが『古事記』の性格を物語るものであろう。勅撰国史に記載されるとは、その事柄は「公」(おおやけ)を意味する。しかし勅撰国史に記載されないということは、『古事記』編纂は「私」(わたくし)の事業だったということであろう。

 天武天皇の詔による「私」(わたくし)の国史編纂事業とは、「天皇家」の歴史書を編纂することであろう。それは天皇家の「家記」と云うべきものに他ならない。

 現在『古事記』と呼ばれる史書は、その序文に拠れば、「太朝臣安萬侶」が奈良時代和銅年間に筆録したものである。しかし、『先代旧事本紀』に『古事記』の文章が利用されていることは、昔から気付かれていた。(そのため『先代旧事本紀』偽書説が生まれることになった。)ということは、『先代旧事本紀』が編纂された推古天皇時代には『古事記』が存在していたことを意味する。それは恐らく原『古事記』とでもいうべきもので、それが天皇家に伝承されてきた「家記」であったと思われる。この辺の事情は次項で検証してみたい。

 『古事記』が私的書物であった証しは、『古事記』の文体からも説明できる。推古天皇時代に導入を試みた律令制は、中国王朝の制度を手本にしたものである。従って、日本の王朝も公文書は漢文を用いることになった。しかし、『古事記』の文体は本格的な漢文体ではなく、倭文化された所謂「倭風漢文」と云われるものである。この文体と云う基準から云えば、『古事記』は公文書とは言えないことになる。律令制度が未完成な時代(推古天皇時代)の『先代旧事本紀』の編纂では、「倭風漢文」がそのまま利用されたのであるが、律令の完成後の『日本書紀』では、「倭風漢文」はまったく姿を消すことになったのである。

 かつて「『日本書紀』は『古事記』をまったく無視している。」と述べられた研究者がおられたが、その判断は『古事記』の文体に拠ったものであろう。しかし、次項で掲げる『大倭神社注進状』裏書所収の『齋部氏家牒』には、『日本書紀』の編纂に当たり『古事記』を利用したことが明記されている。『日本書紀』は『古事記』を無視したのではなく、律令制の公文書である『日本書紀』では『古事記』の「倭風漢文体」は用いることが出来ず、正式な漢文体に変換されて利用されることになったのである。

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