古代史の解読法

平城宮 第1次大極殿(復元)

当ブログでは、ここまで拙著『日本古代史の実像』を紹介するため、拙論が明らかにし得た国史の編纂方法と国史記述の実態について述べてきたが、最後に、そのような結論に至った拙論の「古代史」研究に対する基本的姿勢と国史記述の解読法の概要を述べておきたい。

江戸時代以来の古代史研究は、古文献排除の歴史であったと云っても過言ではない。その先鞭をつけたものが水戸藩の『三部本書弁』で、『先代旧事本紀』を偽書と断定したことに始まる。そしてこの「偽書説」は、江戸時代を通して諸学者により補強・通説化され、後には「近世考証学の展開が、一千年に亘って伝えられてきた旧来の伝承を、文献批判により覆した象徴的な出来事」と(たた)えられることになった。それ以来「古文献」「古伝承」の(たぐい)はすべて、(確かな根拠も示されていない)「文献批判」と云う疑いの目に晒されることになり、研究書には「偽書・偽作・仮託・造作・信じられない」等と云う言葉がうんざりするほど現れることになる。そして、古代史の史実伝承に(とど)めを刺したのが津田氏の「造作説」であった。

このようにして、古代史を伝える貴重な古文献記述のほとんどが切り捨てられてきたのであり、今や「文献批判」と云う言葉は「文献否定」の代名詞となった観さえある。

古代史を伝える「古文献」は、古代社会の崩壊と共に消滅を余儀なくされる宿命を背負ったものでもあった。戦国時代と云う破壊と消耗の時代は、日本全土を焼き尽くした。古代社会の中心地であった帝都・宮城はもとより、古代国家統治の象徴であった全国の神社・仏閣もほぼ壊滅したのである。(現在我々が目にする神社・仏閣は、ほとんどが江戸時代以降の復興の姿である。)そしてそれと同時に、それらに伝えられて来た「古文献」類もほとんどが消滅してしまった。即ち、戦乱を潜り抜けて生き残った「古文献」は極めて僅かな分量に過ぎないのである。実に「文献史学」という学問は、この奇跡的に生き残った僅かな「古文献」と云う、槍の穂先の上に立脚しているような学問なのである。その槍の穂先さえも自らの手で崩し去るような暴挙が「文献批判」と云う近現代の古代史研究であったと云えよう。(いたずら)に「古文献」を否定し去って、研究者はなにを拠り所として古代史を解明しようとしているのであろうか。

拙論の古代史研究では、「古文献はすべてが正しく史実を伝えるものであり、その記述を基本的には疑うことはしない」と云う姿勢で「古文献」に対してきた。これが拙著の主張の基本をなすものである。

「古代史史料」と云うものは、古代社会を支えてきた古代氏族が、その生存をかけて作成した命がけの文章であることを忘れてはならない。そこにどうして嘘偽りが書かれていようか。

くどいようであるが、「古文献」には、(例えそれが民間の俗伝や神社伝承のようなものであっても)偽りや造作は絶対に存在しない。古文献に疑問や矛盾を感じるとすれば、それは古文献に問題があるのではなく、文献を扱う側に問題が存在するのである。(もし古文献の記述に疑問や矛盾を感じたならば、「誤り・偽り」として文献を切り捨てるのではなく、その疑問や矛盾が発生する理由や原因を究明することが学問の筋と云うものであろう。)

「古代史史料」を近現代の常識により批判するのは誤りである。「古代史史料」は古代社会の常識で記録されているのであり、それを「現代の常識」として甦らせる為には、「昔の常識」を再現するための努力が必要なのである。

 これまで当ブログで述べてきたように、国史の古代史記述は「重層構造」で記録されている。その「重層構造」の解明には、国史の記述だけでは不十分なのであって、従来の「記紀偏重主義」で切り捨てられてきたすべての「古文献」の復権が必要となる。

その上で「重層構造」解明に必要なもの、それが、ブログ「古代史解読のために」項で示した五項目の研究と、その研究結果を国史の記述の解読のために結集させると云う解読作業であることになる。

 繰り返しになるが、その五項目を再度掲げておく。

(1)日本の史書(『先代旧事本紀』『古事記』『日本書紀』・六国史)

(2)中国・朝鮮の史書(『後漢書』『魏志倭人伝』『三国史記』等)

(3)古代氏族文書・古代氏族系図

(4)歴史としての神社資料(郷土史資料)

(5)古代倭語の研究(歴史地名)

 史実を解明するための要点は「重層構造」の統一である。中でも歴史の全体像を知るために有用なものは「異名同神・人」の統一である。それには従来「偽作・仮託」として退けられてきた「古代氏族系図」や、「信じられない」として顧みられることの無かった「神社資料」の研究は欠かすことが出来ない。それらには、「異名同神・人」を解明するための手掛りが山のよう眠っており、まさに「宝の山」状態なのである。

ただそれらの資料には、従来「偽作・仮託」として匙を投げられてきたように、この場合にも国史の記述と同様の、それぞれの資料に於ける「記述の仕組み」が存在する。従ってこの場合も、先ずはその仕組みの解明から始めなければならないと云う困難が伴うことになっている。

 例えば、「古代氏族系図」で云えば、「古代氏族系図」は現代の我々の系図観(現代の常識)とは異なる「古代系図の仕組み」(昔の常識)で書かれているのである。従って「古代氏族系図」から史実を読み解くためには、先ずこの「古代系図の仕組み」を解明しなければならないのである。


後正殿(外宮) 伊勢神宮だけの唯一神明造りの建物。
ヒノキの素木造りで、掘立柱の高床式。

 

「伊勢参宮名所図会」  江戸時代に描かれた豊受大神宮(外宮)の祭事。
外宮は当時、度会宮(わたらいのみや)とも呼ばれていた。



「神社資料」の場合も同様で、現在の「神社」(「神道」が管理する)の姿ではなく、古代における神社の存在意義や、祀られる「祭神」の意義を先ず検証しなければならない。こうして「神社」本来の姿を再現することが出来て始めて、「神社・祭神伝承」は「異名同神・人」の統一に絶大な力を発揮することが出来るようになる。
(「古代系図の仕組み」や「神社資料」の利用法については、ここですべてを述べることは出来ないから、いずれ別項で述べる。)

「史実解読」と云えば、その核心であり最大の関心事は、国史の古代史を「絶対歴年」に位置付けられるかどうかと云うことであろう。御安心あれ、上記の五項目の研究結集が出来れば、神話を「絶対歴年」に位置付けることは可能である。

上記五項目の中で、唯一「絶対歴年」が確定されている研究分野は中国史書である。特に『魏志倭人伝』には、倭国王朝との詳細な通交記事が記載されている。従って、『魏志倭人伝』の記事を国史記述の中へ位置付けることが出来れば、「絶対歴年」の問題は解決することが出来る。それには二つの方法が考えられる。

一つは、『魏志倭人伝』の記事は『日本書紀』の「神功皇后紀」に採用されているから、本来なら日本国史の「絶対歴年」は確定されていなければならないのであるが、従来は「記紀紀年」と云う国史記述の「仕組み」のために解明が阻まれてきたのである。しかし、「神功皇后紀」に『魏志倭人伝』を引用してあるのは、国史編者達が国史に『魏志倭人伝』を位置付けたものと考えれば、「記紀紀年の仕組み」さえ解明できれば「絶対歴年」の確定は可能だということになろう。(ただし「記紀紀年の仕組み」の解明にも、「重層構造」の解明と云う壁を乗り越えなければならない。)

もう一つの『魏志倭人伝』位置付けの方法は、「古代倭語」の研究である。拙論の「古代倭語」研究では、国史に用いられたすべての「仮名」の「音訓」を詳細に検討しその「音韻体系」を確立した結果、国史記述の「古代倭語」と『魏志倭人伝』に記述された「倭語」とが同一のものであることを確認することが出来た。(このことは『まぼろしの邪馬台国』が『魏志倭人伝』記載の小国名を「倭国」上の古地名に比定したことの妥当性も証明するものである。)その結果、国史と『魏志倭人伝』とを「古代倭語」という同じ俎上で検証することが可能となり、「古代倭語」という同一の尺度で読み解いた『魏志倭人伝』の記述が、「神話時代」のある事件を記録したものであったことを明らかにすることが出来たのである。

ここに「絶対歴年」の起点は国史上に設定され、更には『後漢書』の記述も加えることにより、国史の記述する「古代史実」の概要が解明されることになった。

こうして拙論は、『魏志倭人伝』の国史への位置付けの方策を二重に得ることが出来たのであるが、それらの詳細はいずれ予定している『日本古代史の実像』第二部で明らかにされるであろう。

これまで当ブログでは、拙著『日本古代史の実像』で明らかにし得た古代史の史実解読法を述べてきたが、以上を以てその概要を紹介し終えたからここで一段落である。

拙論の古代史解読法は、従来からの記紀解釈法とは全く異なるものであるから、従来の学説に依拠する限りは、容易には受け入れ難いものかも知れない。しかし、ここまで述べてきた「国史記述の実態」は誤りないものである。そうであるなら、古代史解明の為には、従来に数倍する研究努力が必要であることは認めざるを得ないであろう。従って、当ブログでは今後引き続き、上記五項目についての研究成果やあるべき検討方法などを述べながら諸賢のご批判を仰ぐことになろう。

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