帝紀と旧辞 (津田学説について)

 『古事記』序の『古事記』撰録の段に、「(てい)()を撰録し旧辞(くじ)討覈(とうかく)して云々」とあり、『古事記』の
撰録資料として「帝紀」と「旧辞」があったことが知られてきた。

『古事記』序には、「帝紀・旧辞」と対で述べられた言葉と類似した表現として、「帝紀・本辞」「帝皇日継・先代旧辞」「先紀・旧辞」があり、また対で述べられた言葉ではないが「勅語旧辞」という表現もある。
これ等の類似した表現を持つ言葉については、かつて津田左右吉氏が『古事記』序を考証し、その著書『古事記及日本書紀の研究』で述べて以来定説化している解釈がある。

津田 左右吉(つだ そうきち) 『古事記』と『日本書紀』(記紀)を史料批判の観点から研究したことで知られる 

 

 それによれば、書名に関しては、「帝紀」「帝皇日継」「先紀」と書かれたものは同類の内容を持つ書物(「帝紀」と総称)、同様に「本辞」「旧辞」「先代旧辞」も同類の書物(「旧辞」と総称)であろうとするのである。その上で「帝紀・旧辞」の内容については、「帝紀」は「皇室の系図や歴代の皇位継承に関する記録」、「旧辞」は「神代の伝説や歴代天皇の昔物語を記述したもの」であろうと推測された。

 更に、「帝紀」「旧辞」の成立については大略次の様に述べる。それは「朝廷で編述されたものであること、その最初の編述は欽明朝頃であったらしいこと、それからのち長い年月の間に幾人かの手によってその内容に種々の変改修補が加えられ、もとは一つであったものに多くの異本が生じた」と。(津田説ではこの異本が『日本書紀』に於ける「一書曰」だと考えている。)

 このような前提に立って記紀の内容を子細に検証した結果が、「記紀は、皇室の由緒を深めたり国家統治の
正当性を主張するために、朝廷により編述された政治的な造作物であり、それらに述べられた種々の物語を歴史的事実の記録として認めることはできない」と云う「古代史書造作説」として展開されてゆくのである。

 津田氏の論文が最初に発表されたのは大正時代である。津田説は実証的史料批判と云う純粋に学問的研究と
認められるものであったが、その「造作説」は記紀記述を史実として受け入れてきた従来の解釈を批判する結果となった。そのため、昭和時代に入り軍国主義の傾向が強まるとともに、記紀記述を国家統治の原理と位置付けてきた国家権力との間に摩擦が生じ、津田氏と出版社は「皇室の尊厳を冒涜」した疑いで起訴され、その著書は発売禁止の処分になる。

 戦後、明治憲法という重しが取り除かれて、記紀研究も学問としての自由を取り戻した。その時眼前にあった「皇室統治の正当性を主張する造作」と説く津田説は、学問的研究である上に、天皇神格化否定という時代転換の要求に応えるものであり、皇国史観の反動の受け皿として当時としてはこの上なく魅力的な説だったのであろう。そこで、その後津田説を起点とした学説が数多く生まれることになり、「造作説」が歴史学界を席巻することになったのは、ある意味ではやむを得ぬ時代の潮流であったというべきであろうか。

しかし「造作説」が徒に振りかざされたことにより、記紀記述の史実性への疑問は定着し、古代史は闇の中を
彷徨うこととなる。そして記紀の物語が姿を消した歴史教育からは、民族の起点である古代史の部分がスッポリと抜け落ちてしまった。以来、日本民族は国家創建の歴史を喪失して久しいのである。

このように、歴史学界に多大な影響を与え続けてきた津田学説ではあるが、その論拠にはいくつかの誤認が
あるようである。(続く)

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