日本最古の史書は「先代旧事本紀」

第33代天皇 推古天皇

『先代旧事本紀』はその序に拠れば、推古天皇二十八年三月に聖徳太子の命(みことのり)により
撰定されたとある。即ち、日本最初の勅撰史書であった。そして室町時代頃までは
『古事記』『日本書紀』と共に「三部本書」と呼ばれ、日本の歴史を記録した史書として
尊重されてきたのである。

 ところが江戸時代に至り(近代的な文献批判思想の流入により)『先代旧事本紀』の記述に疑問が
提起される様になる。それは記述の中に推古天皇朝時代では知り得ない記事が含まれている事、
記述の多くが『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』からの引用文により出来上がっている事等々が
指摘され、平安時代初期以降に『日本書紀』推古天皇二十八年条に仮託して作られた偽書であると
断定されたのである。その後もこの偽書説は様々な角度から補強され通説化されたことにより、
明治時代を経て今日に至るまで史書としては疎外され、まじめに研究する学者はほとんど現れない
状況が続いている。
 しかし、偽書説を鵜呑みにして『先代旧事本紀』の研究を怠ってきたことが、古代史解明を
阻害してきた最大の要因であった。それは『先代旧事本紀』が「紀伝体」で書かれた史書であった
ことを見抜けなかったことにある。

第33代天皇 推古天皇
第33代 推古天皇像                                                       

「本紀」の意味

 『先代旧事本紀』が「紀伝体」で書かれた史書であることは、その書名『先代旧事本紀』が自ら
語っている。書名の末尾に付された「本紀」と云う言葉は、本来は中国の「紀伝体」形式史書の
叙述区分の一名称で、各帝王一代毎の歴史が記録された帝王紀のことである。中国の「紀伝体」史書
では、この「本紀」や「列伝」「志」「表」などが一体となって一つの史書を構成する。
即ち「紀伝体」史書は、帝王・列侯毎に記述された歴史書や規範書などの集合体であると云える。
従って「本紀」「列伝」などの配列順序が史書全体の歴年を表示することを目的とはしていない。

 『先代旧事本紀』の場合も、「神代本紀」「天皇本紀」「国造本紀」など十一の「本紀」の
集合体として構成されている。これらの「本紀」の内容は、厳密にはすべてが中国史書のような
一代記ではなく数代がまとめられた場合も多いが、『先代旧事本紀』の「本紀」にも王家毎とか、
血統関係とか意図的なまとまりが確認できるのであり、中国史書の「本紀」が手本であることは
明らかである。
 推古天皇朝になると中国隨王朝との通行が始まる。遣使の最大の目的は中国王朝の統治機構
律令制度を学ぶことにあった。その中には法律としての「律令」の制定ばかりではなく、
国家統治のための様々な事柄が含まれていたはずである。その中の一つが国史の制定であろう。

 中国の史書は単に歴史を記述しただけの書物ではない。それは国家統治のための規範であり、
帝王と臣下との立場を明確に定めるための規定文書なのである。その上中国の古代正史はすべて
「紀伝体」形式で編纂されているのである。
 このように「本紀」という名称を持つ『先代旧事本紀』が、制度文書としての中国史書に
倣ったものであるなら「紀伝体」形式と云う意識のもとに編纂された史書であることは疑えない。

大阪府南河内郡太子町大字山田にある推古天皇御陵 磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)                   
 遺跡名「山田高塚古墳」                                                    

コメント

  1. 宝賀寿男 より:

    ○ご連絡をいただき、早速、一部ではありますが、拝見させていただいております。

    ○『旧事本紀』には様々な混乱もありますが、重要な史書であり、「偽書」だとして捨て去るのは極めて問題が大きいという点で、同感です。

    ○戦後の津田亜流学究たちの視野狭窄な研究方法には、多くの疑問を持っています。

    ○ご健闘を祈念いたします。

    • toyohiko-y より:

      宝賀様

      早速のコメントに感謝。
      江戸時代国学由来の記紀偏重主義にそろそろ別れを
      告げないと、日本古代史に未来はないのです。

                        豊彦

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