「記紀紀年」の仕組み

 

「先代旧事本紀」 序 寛永21年刊行
「先代旧事本紀」 序 寛永21年刊行

 先に、「記紀紀年」は「見せかけの編年」であると述べたが、ここではその仕組みの概要を示しておこう。
 『先代旧事本紀』は「本紀」と名付けられた十一の区分の集合体として構成されている。
もし『先代旧事本紀』が「紀伝体」で書かれた史書であるなら、この十一区分の「本紀」はすべて独立した歴史記述であるから、それを連続した歴年による記述と解する必要はない。

 「編年体」風に改編された『古事記』『日本書紀』(記紀)を偏重しそれに慣れ親しんだ人々には、物語の配列順序がほぼ等しい『先代旧事本紀』を読んでも気付けなかったのであろうが、「編年体」的意識を取り払って『先代旧事本紀』に臨んでみれば、各「本紀」を独立した歴史記述とする事に何の支障もないことが分ろう。特に最後の「国造本紀」が、それ以前の「本紀」と全く歴年の連続性を持たないのはその典型である。

 このような「紀伝体」書式における各「本紀」の歴年と史実歴年の関係を表したものが、下に示した〔A図〕である。もし「甲・乙・丙」各「本紀」の歴年がこの様であったなら、それぞれの「本紀」の史実歴年は重複しているから、その記述が扱う史実歴年の範囲は「イ」年から「ニ」年となる。

 ところが日本の古代史書では「紀伝体」形式にもかかわらず、各「本紀」を〔B図〕「記紀構成」に示したような連続した歴年構成に定めて、「編年体」形式の体裁に仕上げたのである(その際『日本書紀』では『先代旧事本紀』で設定した「本紀」の枠を取り外してしまった)。従ってこの場合は〔B図〕のように、史実歴年に対して「ニ」年から(ニ゛)年分の歴年の引き延ばしが発生することになる。それにもかかわらず、その史実歴年との差は承知のうえで(それには当然何らかの意図が介在するのであろうが)引き延ばされた歴年分に対しても編年が施された。これが従来から歴史学者諸賢を悩ませ続けてきた「記紀紀年」と云うものの実態なのである

 従来から「記紀紀年」は著しく引き延ばされていることが指摘され、そのままでは信用することが出来ないとして記紀の史実性を疑う論拠の一つに挙げられてきた。しかしその引き延ばしが、なぜ、どのように行われたのかという理由や引き延ばしの仕組みについては、納得のゆく説明がなされてこなかった。しかし、『先代旧事本紀』の「本紀」の意味を解明することにより、「記紀記年」引き延ばしの原因の一つが、国史の構成法(書式)に起因することを立証できるのである。

 古代国史の記述は、例えば「天照大神」の物語とか、「神功皇后」の事蹟とか云っても、それ等を単に繋ぎ合わせたところで史実歴年にはなり得ない。国史から史実の歴年を再現するためには、一度「紀伝体」の構成に戻し、更に諸家の「家記」毎にバラバラに分解した上で個々の伝承についての検討を行いながら、それを歴史の全体像の中へ位置付け直す作業が必要となる。そして、個々の物語が絶対年代に対し矛盾なく配列された時、始めて史実としての古代史像が姿を現すことになるのである。

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